考えるおるにちん

おるにちんがマンガアニメその他について考えたこと

年の瀬に考えることなど

 クリスマスには佐野元春の「Christmas time in blue」を聞いて過ごすのが習慣である。この曲のサビでは、「うまくやれる人も しくじってる人も」など、対極にあるものを並べていってどんな人も「tonight it gonna be all right」と祝福していくのが好きだった。本当に全ての人が祝福される曲だと思ってた。けれど、ロシアは戦争をやめず、G7で核廃絶へ向けた道は見えず、パレスチナシオニズムの名の下に爆撃が繰り返されるのをアウシュビッツさえ看過し、日本で難民はいじめられ、ミャンマーや中国での民族浄化はどうなっているかすらわからない。「平和な街も 戦ってる街も」クリスマスは平等に来ているの?ホントに?尾崎豊の「COOKIE」も川村かおりの「戦争がおきたら」もどこかただのんびりとしていて、到底プロテストソングからは遠のいてしまったように聞こえる。「戦争がおきたら ボクらはどうするのかな」と夢想できた時代などそもそもまやかしで、戦争が起きている世界で、貧乏ながらも無事に年越しを済ませつつある私がいる。

 世界が平和であること、つまり、どんな民も飢えていないこと、寒過ぎず暑過ぎなずに過ごせること、殺されないことになることにつながる行動ってなんだ?

 広島での平和教育って、私たちの学んだことってなんだったんだ?それを生かさないこと、アップデートさせないことを続けていて我々の平和の街とどの口で言えるのか?ひろしまタイムラインやあちこちのすずさんへの反省と批判を忘れてはならないのでは?私のそだったヒロシマの街の人々は核武装を肯定するような岸田のおべんちゃらを聞いて何を思っているのか?岸田と同じくらい岸田を当選させ続けている広島の大人たちに私は真剣に腹を立てている。本当に。平和の街の看板を我々が下すわけにはいかないのに、しっかりしてくれと思う。私はもうすでに広島での選挙権はないのでこうやってアジることしかできない。直接なんてまして言えない。子供のころ「心の戦争は終わっていない」と下手な作文を書いた頃から書き表すことしかできない。それが、なんの役に立つ?

 自分自身への無力感を社会への怒りに投射していることに気づき、SNSでもなかなか自分の言葉で言えない。無力感は自分ならより世界を、社会を良くできるという高慢さの裏返しなのだろうと思う。だが、社会は良くも悪くも個人の意志や行動でその力学を変えられるような運動体ではない。デモが力を発揮する時、それが社会を動かすというより、社会の動きを表わしていると権力者に思わせられるような納得さが必要なのだと思う。世界平和を達成するには、デモで表される人道的なことをもって、あるいは、己の倫理観の信ずるところをもって、社会をある程度規律している、政治、行政、立法府に働きかける必要がある。行政によって基本的人権が侵された事例を人々の間でたくさん共有してその支えとしなければならない。

 年明けに、生活困窮者当事者として、ある勉強会で経験談と自分の考えを話す機会を得た。この仕事をやり切って、困っている人たちの暮らしが抜本的に良くなる施策の実施や、そもそもの不平等の解消につながれば良い。