考えるおるにちん

おるにちんがマンガアニメその他について考えたこと

ゼロからはじめるconsed 01 序文 (生物系のための読み物)

20220628 序文

 

雨がやばい札幌からこんにちは。おるにちんです。

 

おるにちんは生物系の大学生です。

 

幾度も4年生を繰り返し、今年からとうとう卒業研究を始めました。

 

研究のためにDNA配列を読まなければなりません。

 

そのためにconsedというソフトを使う事を強くおすすめすると先生に言われました。

 

consedはWindowsではつかえません。

 

LinuxMacでつかえます。

 

おるにちんは、生まれてこの方Windows userです。

 

大変困りました。

 

windowsでもDNA配列を読むソフトはあります。

 

MEGAはインストールしてありました。

 

でもMEGAだと、こんてぃぐを決めるために目視で怪しいところを探さないと行けません。

 

数百の文字列を目で追って直すのは大変そうだし間違えそうだと思いました。

 

おるにちんはレインマンじゃありません。

 

consedはその配列の確かさを色で示してくれるので怪しいところを見つけるのはとっても簡単です。

 

そんなら導入は大変でもconsed使おうと考えました。

 

これはconsedの解説ブログではありません。

 

これはLinuxの知識がないおるにちんがDNAを読むためにのたくった跡です。

 

 

 

五年ぶりにダーウィンが来た!を見た

 中学二年になって、初めて古めかしいホルマリン標本の並べられた生物室で、生物を習う生徒たちに先生はこう言った。

 

「『ダーウィンが来た!』はとても生物の勉強になるから見るといいよ」

 

 以降私はその教えを忠実に守り、この番組を視聴する習慣は浪人を経て大学進学で家を出るまでの6年間続いた。平原綾香の曲で始まり、三部構成で、各章の間にも関連したトピックや最新研究を紹介し、生物学上重要な概念には時々図による解説を交えたわかりやすいものだった。楽しい番組であった。

 

ちょっと待った!誰かのことを忘れてはいませんか?

 

 そう、ヒゲじいの存在である。彼はヒゲの生えたカメなのか色の抜けたモリゾーなのか判然としない謎の生物である。彼は毎回ナレーションを「ちょっと待った!」と遮り、質問を差し挟み、ナレーターに答えてもらっては、納得したり、時にはもう一度反駁したりした。そして最後には必ず「布団が吹っ飛んだ」並みのダジャレをかまして、ナレーターにサムがられるのであった。

 ヒゲじいのダジャレは思春期真最中の少女には決して快くないものであった。サムかった。生物の行動や仕組みに「ワザ名」をつけることと同じくらい子供っぽいと思った。ただ生き物の映像と解説に浸っていたかったので、ヒゲじいがこの番組に登場する意味がないとさえ思うこともあった。

 

 初めてダーウィンが来た!を見てから十年以上たち、テレビのない生活を経て、実に五年ぶりに番組を続けてみる機会があった。

 

 奇妙だった。ナレーションがなかなか遮られず、よどみないのだ。一度ヒゲじいが出て、質問をして、ナレーターが答えて、引き下がっていった。ヒゲじいはダジャレを言った。ナレーターがダジャレについて「さすがヒゲじい」といった。明らかにおかしい。ナレーターがヒゲじいをほめるのは、ヒゲじいが鋭い質問を放った時のはずだ。構成は二部構成で、後半にはヒゲじいが登場すらしない。しかも内容は、三部構成のうち、おまけ程度の長さの感動的な部分を引き延ばしたような、生物学的な解説の存在しない内容であった。「もう一度、ちょっと待った!」がなくなったということだ。そして『マヌールの夕べ』という次回予告と内容が重複する謎のゆるいアニメが、三部構成のころには2度あったトピック紹介の枠を1つ埋めていた。なんということだ。こんなことになってしまって、ダーウィンが来た!は、生物学として面白い番組ではなくなってしまった。

 

ちょっと待った!

 

なあに、ヒゲじい。

 

 本当に番組そのものが面白くなくなったのですか?一つの回をみただけでは、全体のことは分かりませんよね?偏った作りの回をたまたまみてしまっただけ、なのでは?

 そうだね、ヒゲじい。私もその可能性を考え、自分が持っているサンプルを増やそうとしたんだ。つまり、五週にわたって連続して視聴したんだ。五回とも、ヒゲじいの出番は一度しかなかったんだ。そして、五週目に私は自分に悲嘆をもたらす現象を目の当たりにしたんだ。

 

 今日の放送は、二週連続の群れをつくるチーターの後半回だった。前半ではすでにヒゲじいが一つ質問をし、そのあとの出番はなかった。チーターの内容にその場にいた人に、ここが疑わしいなどとやいやい言いながら、後半の構成がどうなるか固唾をのんで見守っていた。ヒゲじいが出てきた。ダジャレを言った。ナレーターがおだてた。退場した。

 

もうそれ以上は見ていられなかった。私はテレビを消した。もうヒゲじいは、あの頃のヒゲじいじゃない。

 

もう一度、ちょっと待った!

 

来ましたね、ヒゲじい。

 

 私の出番がちゃんとあって、ダジャレを言えたんですよ?私の番組における役割は果たされたと思いませんか?

 そうだね、確かに中学生のころの私も、ヒゲじいの役割はダジャレを言って年少の視聴者を和ませることだと思っていたんだ。けれど、私は大学で生物学系の学部に入って、自然科学や生物学でのものの考え方やその正しさの検証の仕方について、たくさん留年してまで何年も学んでから、ヒゲじいの真の役割は、質問をすること、提示された考えについて批判的な見方をすることだと気づいたんだよ。その批判的思考をするくせを若い視聴者にみせることだったんだよ。それがなくなってしまった今、あの頃のヒゲじいはいなくなってしまったと考えるのが妥当なんだよ。

 でも、それはあなた自身だけが抱えている、そうあるべきという理想に基づいていませんか?番組は、テレビを見ているみんなのためのもの、ですよね?みんなが楽しんでいるなら、今の私でもいいのではありませんか?

そうだよ、ヒゲじい。だから私は番組を見続けて、批判や質問をテレビに向かって投げかける。答える人がなくても、私はあの頃のヒゲじいになるんだよ。

 

おわり

倫理学について考えたこと覚書

Twitterで呟いたことを加筆修正したメモ

 

 倫理学やり始めて、倫理マターの問いと、周辺分野の問いを少しわけられるようになった。動物福祉の話で意見が対立する者同士が噛み合わない理由のひとつがわかった気がする。それは多少人間の活動を犠牲にしても動物からこれ以上搾取するべきでは無い、権利を与えるべきだ、という倫理観の主張に、でも実際にはそうしないと医療、健康、環境の問題が解決できないって言うのは、それはあくまで医学、科学からみた合理性の話であり倫理そのものの話ではなく反論としてずれているからだ。

 まず自分が拠っているの倫理を言語化して、それを伝え合うことがまず必要なのかもしれない。たとえば、じぶんは、人間の生活の維持と発展が他の動物より優先されるべきだと考えてこのように反論したのだとか。

 そこからはじめることは、どちらかが既に正しいと社会で合意形成されていてそこから議論が進まないのだという膠着した考えから抜け出せるのではないか

おるにちん執筆予定

さ~て、n週後のおるにちんが書くのは?

 

『仲良くなるおまじないをした人たちへ シン・エヴァンゲリオン感想 破』

 

三原順ファンサイトやtwitterをROMるだけで十分だった俺が何故かアンソロ本を主催してコミケに出た件』

 

『『名探偵コナン』にみる女性観、ナショナリズムの台頭』

 

BEASTARSユリ熊嵐で語るケモノリアリティーソーシャルリアリティ』

 

RWBYのクロウおじさんのメンタルヘルス(後編)』

 

の、5本はあるよ~今年中にできる気がしないよ~

 

 

なお、pixivにあげているコナンの小説『失われた工藤新一を求めて』は結構時間かかりそうだけど絶対仕上げます。灰原哀のことを考えるのは私のライフワークなので。

喪われた工藤新一を求めて その1www.pixiv.net

仲良くなるおまじないをした人たちへ シン・エヴァンゲリオン感想 序

「おとなになったな、シンジ」

ゲンドウはそう表現した。

私は人間が昆虫が変態するように「こども」から「おとな」になると言う考えに懐疑的である。
身体や性腺の成熟度合い、生きた年数に比例して人間の精神活動も「高度」になるべきだ、それが「おとな」になることだ、「おとな」にはなるべきだ、という価値観を脱したい。
その価値観の中で苦しんでいる友達たち(仲良くなるおまじないをした人達)をその内外のプレッシャーや傷つきから解放したい。

だからこの感想を書き残しておく。

(続く)

 

この記事は自分のnoteから転載したものです。

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みんなTONO先生の『カルバニア物語』を読もう

※2019年5月14日 ネタバレ部分を追記しました。
最近はTONO先生の作品をゴリゴリに推している。『カルバニア物語』を無料キャンペーンで3巻まで読み、順番でちょっとずつ買おうかと思っていたら、新刊18巻にプレゼント応募券(今は〆切過ぎてる)がついていて、買ってそれを読んだ。


 カルバニア物語は初めての女王タニアが即位した王国の日々を描いている。タニアの幼なじみ、エキューは男装と女装を軽やかに着こなし、初めての女公爵として働いている。カルバニアでは国家元首が女性になったから、社会も女性の進出を許さざるを得なくなったのだ。
 3巻からとんで18巻を読んで不思議なことに途中から読んでいる時の違和感がない。エキューがライアン(多分初期に出てきた少年好きのひとだよね?)と恋仲になっていてびっくりしたが、ああ、エキューそうなんだ、とすんなり理解し、私がこの巻で初めて見た人物ナジャルやその恋人たちの話は前から続いているようなのに、何が起きているのかはすっと入ってくる。

 ところで、普段の私は漫画を1巻から通しで読まないと気が済まないタイプである。というより1巻から積み重なる物語を読むのが好みなのだと思う。名探偵コナンは途中の巻から読めるっちゃ読めるけど単行本によっては事件解決編からページが始まることもあって、こういう時は読んでもさっぱりである。HUNTER × HUNTER未読の人に、アルカとキルアの話が感動的だからと、選挙編からは貸せない。あれはキルアの家族たちの歪んだ所を前から描いているからあの緊張感が成り立つのだ。通しで読むべき作品というものが世の中にはある。

※ここから『カルバニア物語』18巻のネタバレになります。

 

 


 18巻ではタニアのいとこ、ナジャルを中心とした女性の話である。ナジャルの一族の男達は代々たくさん愛人をつくって「適材適所で女性を何種類もキープしながらやってきた」(36ページより引用)のである。また、ナジャルは王族の血を引いているので、ナジャルの「正規の愛人」になれば国から完璧に予算が出て、正規でない愛人にも、王族の子を産む可能性がある女性への手当としてある程度のお金が出るのだ。つまりこれは色恋の話であると共に女性のキャリアの話でもあるのだ。

 「正規の愛人」アナベルは美しく着飾り何ヶ国語もたくさん勉強して社交界にでているが、周りの人達から懐妊への期待を露骨に出されて参っている。その様子をみてエキューは自分の彼氏とのエロ話を話の枕にしてアナベルにナジャルとはうまくいっているのかときく。これは今を生きる私たち女性が直面する悩みとダイレクトにつながっているではないか。私たちにもエキューみたいにきいてくれる友達、知り合いがいるではないか。

 タニアやエキューは、やんごとない身分なんだけど私たちのそばにいて、キャリアや恋の世間話をしていく。それは中学の同級生に久しぶりに会って最近どうなの?と話すような、聞く方は切れ切れの断片でも、ひと繋がりの人生の物語である。

 

この記事は自分のnoteから転載したものです。

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めざせポケモンドクター(生物学)/(歴史学) あらすじ

ここは今よりかなり荒廃した遠い未来。ポケモンと暮らしているけど、モンスターボールやぼんぐりはロストテクノロジーとなり、人に慣れやすい、人の役に立つポケモンだけが、トレーニングされ、人々と一緒に生活している。ポケモン以外の動物はかつてたくさん存在したが、今では標本や文献が散り散りになって生きているものもごく少なく、肉を食べるための家畜のみが生き残っている。
ハナダで育った幼なじみ同士のスミとフミ。スミはポケモンを飼うことができず、家で使役するポケモンを飼っているフミの家に入り浸ったり、海岸で遊んでいる。ハナダ洞窟の海岸でもぐったとき、スミとフミは破壊の遺伝子を発見する。
2人はタマムシアカデミーに所属し、研究を始める。そこにはあらゆる地方から学生が集まる。
スミはポケモンの発生の起源を他の動物と比べて系統分類学の側面で探そうとするが、そもそもポケモンは本当の意味での進化を遂げていないのではないかと定説を疑い始める。
一方フミは、不完全な形で伝わっている絵巻物のサトシサーガや、スペシャル異本などの文献を再整理することで、人とポケモンのかかわりの起源を探ろうとする。
研究を進めたスミとフミはやがて恐ろしい仮説にたどり着く。ポケモンとは何か上位の存在にデザインされて作られた人工生物なのではないか、と。

 

 

(この記事は自分のnoteの記事から転載し一部加筆修正したものです。)

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